夜11時代の電車の中は酔客で、みっちり埋まっています。
つり革につかまっている夫の前にいた酔っぱらいが、
手持ちのアタッシュケースを、ばたんばたん、
開いたり閉じたりしています。理解不能な動きです。
酔っているのでしょう。
渋谷から発車した電車が二つめの駅に到着してトビラが開いたとたん、
夫の体がトビラの方向へ引っ張られるではありませんか!何ごとだぁ!
まだ、夫の降りる駅ではありません。
なんと、先ほどの酔っぱらいが持っているアタッシュケースに
夫のデイパックの紐が挟まっているではありませんか!
ぐいぐい夫の体をひっぱり続ける酔っぱらいは、自分が開けたり閉めたりした
ときにカバンの紐を挟んだことにまだ気がつかない様子です。
けれども、夫が自分の下車を阻んでいることに気付いた酔っぱらい。
そして、夫にナニすんだよう!というような視線を投げ掛けてきます。
こんなやりとりをしているうちに、プッシュ−ン、と電車のトビラは
閉まり、酔っぱらいの降りたかった駅を無情にも通過して行きました。
わなわなと怒りにふるえる酔っぱらいは、夫のほうに、くるりと体を
向け、抗議しようとした瞬間、自分のアタッシュケースに紐が挟まって
いることに、ようやく気がつきました。
さて、自分が原因だとやっと解った、酔っぱらい。
ぱかっ、とアタッシュケースを開け、紐を夫に戻します。
気まずいのか、夫に背を向けてつり革につかまる酔っぱらい。
背を丸めた酔っぱらいは、夫にわびる気配すらありません。
けれど「酔っぱらっているから仕方ない」と、理解してあげるやさしい夫。
ところが、しばらく背を向けしょんぼりしていた酔っぱらいが、
ちらっ、ちらっと、何度か夫の姿を、盗み見る真似をしました。
すると突然、酔っぱらいがくるりと夫の方に振り返り、あごを上げ、夫を見下す
視線を投げ掛けてきたではありませんか!
カジュアルな服装で、仕事に疲れた夫のナリを見て弱そうとでも
思ったのでしょうか?
しょぼくれた気の小さい酔っぱらいが突然夫に、牙を剥いたのです!
オマエのせいで乗り過ごしたんだよ、どうしてくれんだ、と
全身で怒りを表現し始めました。
自分が原因で、夫を電車の外にひっぱり出そうとしたことを棚に上げて、
電車を乗り過ごした怒りだけぶつけられても...
日本で三番目ぐらいに腰が低いと言われる夫も、さすがにこの男の態度は
許せませんでした。
夫はぎろりと酔っぱらいを睨み付けました。
私は、夫の喧嘩を一度も見たことがないのでカレが強いのか弱いのか
さっぱりわかりません。ただ目の力が恐ろしく強いことを知っています。
弱い人間は自分より弱いやつを見つけると、強い態度に出ます。
反対もまたしかりです。強い人間の前では、急に卑屈になったりする。
夫の恐ろしく強い目の力に酔っぱらいは、ひれ伏しました。
酔っぱらいは、つり革を掴んだまま寝たフリをはじめましたとさ。