喜多桐スズメのニューおろおろ日記

漫画家・イラストレーター喜多桐スズメの日々雑記

津和野に行って来ました。

先週の9日土曜日から11日月曜日まで、島根県の津和野に友人と行っておりました。

先週の事なのに日記書くの遅いですね、はいはい、戻ると仕事が溜まっておりました。

ので、今頃アップ。

ワタクシの憧れの地、津和野。

安野光雅画伯の生誕地。

羽田発、岩国空港からレンタカーで津和野に到着したのは夕暮れ、逢魔が時。

この時刻の津和野観光のメインストリート、殿町通りの美しさに友人とふたり、クラクラ。眩暈がしそうなほど美しい景色でした。

その空気はワタクシの下手な写真ではなかなか伝わらない。

岩国から津和野に行く途中の景色がすべて、安野光雅先生の絵そのもの。

この空気の中、この景色を見て育ってあの素晴らしい絵をお描きになったのね、と、もう道中、涙腺崩壊状態。

その昔、武家屋敷があった殿町通りには鯉。

知っているのよ鯉のことも、ワタクシは。安野先生の絵本で細胞が出来上がっているオタクだから、津和野のことは、大体知っているのよ。

JR津和野駅のすぐそば、安野光雅美術館。

美術館では、オタクパワー全開で、聞きもしない友人に学芸員きどりで解説。

うるさかっただろうね。

子どもの頃に、安野光雅先生に人生で初めてファンレターを出し、しかもお返事まで頂き、嬉しさゆえにお返事を返すとまたお返事を頂き。

幼くても、さすがにこれ以上手紙を書くのはヤバい、と自制したら、年賀状まで頂き。もう、子どものワタクシはどうしていいのか分からないぐらい嬉しかったのです。

で、これらのお手紙を津和野に連れて行きました。

で、改めて、なんでこの年まで津和野に行かなかったんだろう。

憧れが強すぎて躊躇してたんだと思うの。

ご本人に会う機会もあったのだけれど、延々、躊躇していて時が経ち、お亡くなりになって、今は後悔しております。

 

津和野に行く機会を作ってくださった月詠の君に感謝。

 

寛政10年(1978)創業の薬屋さん、高津屋伊藤博石堂。
殿町通りの建物は歴史的文化財で、もおおお、全てが圧巻で最初なんのお店か分からなかった。

 

9代目・伊藤利兵衛と名乗る、華奢でキュートな女性店主が対応して下さいました。

5代目の伊藤利兵衛さん、森鷗外が日露戦争に従軍する際に餞別として渡した一等丸。胃腸薬です。

津和野の二大巨頭、森鷗外と安野光雅。あんな小さい町から日本を代表する偉人を2人も生んだ津和野、すげー。

安野光雅先生は森鷗外が翻訳した即興詩人を生涯の一冊というほど愛読されていた鷗外フリーク。

ワタクシも鷗外作品大好き(女子としては舞姫だけは微妙)。

で、9代目から、森鷗外が一等丸を服用しその即効性に感動した話を聞かされ、友人と即買い。生薬の一等丸、香りがすんごく良い。

いい香りと感じるのは、身体が欲しがっているんだね、と、友人とともにしみじみ思う。

薬を買ってお代を支払う際「安野光雅先生も飲んだんでしょうかね?」などと、9代目店主に問いかけるワタクシ。

すると、9代目の瞳がキラリと輝き、安野光雅先生のこと語る語る。安野光雅先生のことを語る人の話は何日でも聞いていられますよ、嬉しすぎて。そしてワタクシも安野光雅先生のことを語る語る。

安野光雅先生は一等丸を愛飲されていらして、伊藤博石堂とは縁が大変深かったのでありました。

安野先生の絵にも一等丸が描かれていることを店主から教えてもらい、あー!あの絵だったのかと、数十年の時を経て、点と点が線に繋がったのでありました。

で、津和野に連れてきた安野先生から頂いたお手紙を、自慢していいですかと前置きをして9代目に見せると「安野さんの文字だ」と、うるうると感動され、「これは持ち歩くものではなくて額装して下さい」と、言われました。扱いがぞんざいだったのやもしれません。

SLデゴイチ山口号。山口~津和野間を走る観光蒸気機関車。土日の予約は一杯で、鉄道ファンで激戦だそう。

津和野の美しい風景に蒸気機関車の音が響き渡ると、何だか異世界に連れていかれたような気持ちになりました。懐かしい感じのする異世界。

 

で、津和野で食べた飯の美味さったら、何を食べても美味しいの、津和野。写真、取り忘れたよ。安野光雅先生と森鷗外のことばっかりで。

 

 

👇一等丸は調子が悪い時でなくとも、毎日少しづつ飲んで胃腸を丈夫にする効能があります。ハライタの時は多めに飲むと速攻性があると、鷗外先生も語っております。

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